あなたはこの醜悪な男 井上ひさしの数々の卑劣な犯罪を知っていますか?

Do you know the animal abuse crime of Japanese writer Hisashi Inoue?

低俗売文屋 井上ひさし(1934年~2010年)の数々の卑劣な猟奇犯罪(動物虐殺・DV)を知っていますか?

猫を殺し、妻を殴りながら反戦を唱える男。

死後一瞬で忘れ去られ、地獄で炎に焼かれている低俗売文屋 井上ひさし。

・小学6年生の頃 猫を高所から落として殺害

・高校生の頃 日向ぼっこをしていた猫にガソリンをかけて火をつけて殺害

・妻を骨にひびが入り、鼓膜が破れるほど日常的に暴行していた

・孤児としてカトリックの養護施設で育てられ、洗礼を受けたが棄教し、反キリスト教に転向

さらに犯罪者 井上ひさしは自身のゴミ本の中で奇をてらった文章を交えて殺害した猫達を嘲笑し、卑劣な犯行を正当化している。

以下、井上ひさし『巷談辞典』のP376-P379「動物愛護」(河出文庫:2013年)から

動物を可愛がっておいでの皆さんからは叱られるかもしれないが、子どもの時分からずいぶん犬や猫を苛めてきた。

虐殺を”苛め”と称していることからもわかるとおり、このクズにとっては動物虐殺は”叱られる”程度のイタズラ感覚でしかないのである。

 

また小学六年のとき、柔道を習い始めたが、あるとき、この柔道の教師が、 「猫はどんな高いところから跳びおりても、ぴたりと四つ足をついて着地するが、姿三四郎はこの猫の着地法を見て独得の受身術を編み出した」 と、話すのを聞き、友だちと猫の着地術を研究したことがある。やはり近所の猫を雑魚でおびきよせて捕え、火の見櫓の天辺から落したのだ。猫はにゃんともいわずに即死した。』 

”にゃんともいわず”” このセンスは文脈に関係なくただ寒い。残念ながらこんなゴミ売文屋をありがたがる読者が日本に一定数存在するらしい。

高校時代、日向ぼっこをしていた猫にガソリンをかけ、マッチで火をつけたことがある。 猫はあっという間に火の玉と燃えあがり、ひかり号なみの速度で西に向って走り出し、これまた行方不明となった。 まだ達者ならとっくに地球を一周して戻ってきていいころであるが、 それ以後、彼の姿にはとんとお目にかからぬ。おそらくどこかで野垂れ死にしたのであろう。

執筆当時には中年に達していた井上ひさしは恥じらいもなく虐殺正当化の詭弁を嘲笑を交えてこう綴っている。これは環境や遺伝の犠牲者などではなく人間モドキ井上ひさしが本質的に邪悪な存在であることを証明している。

自らが行った猟奇犯罪を書籍として出版した井上ひさし。これは少年Aの「絶歌」に先駆ける猟奇スナッフ書籍である。

”動物愛護側の人間にはダブルスタンダードが多いから猫を殺していい、殺して当然だ” と自らの犯罪を正当化する井上ひさし

動物愛護精神に矛盾があると信じる井上ひさしは猫を虐殺した動機について動物愛護家を嘲弄するつもりだったと述べている。

犬に牛肉を与えている自称動物愛護家は、わたしにいわせれば滑稽だ。その人たちは牛という動物に対する愛護精神の方をいったいどのように考えているのだろうか。 真の動物愛護家なら肉食動物を飼うことはできないだろう。ある動物を餓えさせないために他の動物の肉を供することに苦痛を憶えるはずだろうからである。

仮に動物愛護側のダブルスタンダードを発見したとしても動物を虐待していい理由にはならない。

つまりこいつは「ある動物を餓えさせないために他の動物の肉を供する」人間がいるのだから、私は楽しみで動物虐待していい。とほざいている。
「ある動物を餓えさせないために他の動物の肉を供している」のだから、これ以上動物を傷つけないようにしようと考えるのがまともな人間だ。
「ある動物を餓えさせないために他の動物の肉を供している」のだから、あらゆる動物を虐待しようと唱える井上ひさしのような人間が増えれば地球は一瞬で荒廃する。

さらにこいつは”食肉という動物虐待が認められているのだから自分の動物虐待も問題ない”と食糧確保のための動物の殺害と、楽しみのための動物の虐殺という基本的に目的と手段が異なるものを同一視している。この発言が食肉産業従事者に対する最大の侮辱であることは明らかだ。

この男は犬や猫を餓死させないために、肉を与える緊急避難行為が認められているなら、楽しみのための動物虐殺も認められるべきだと主張しているのだ。

そもそもペットフードのカリカリの半分以上は小麦粉やとうもろこしであり、缶詰タイプは人間に売るための食肉を製造する工場で廃棄されるはずだった切れ端の肉を加工したものだ。

犬や猫が人間に依存しなければならなくなった理由は肉食動物が狩りによって自給自足が成立する環境が人間によって破壊されたからであり、人間による給餌によって動物の生存を補償することは倫理上矛盾しない。

もちろん井上ひさしの死肉をペットフードにするのが最適かつ最善な方法であることは言うまでもない。

人間の手によって破壊された自然環境の損失を人間の手によって回復させるまで肉食動物を保護する必要がある。

自然環境の回復を優先することは動物愛護の中心的課題であり、将来的に犬猫を自然に還すことを前提に、肉類ペットフードの廃止を目指しながらも、犬猫の餓死や絶滅を抑制することは動物愛護の方向性に沿うものである。

井上ひさしは”矛盾があるから猫を殺していい”と自らの下劣な楽しみのために猫の殺害を正当化する評論もどきの雑文を飯の種にする卑しい売文屋に過ぎない。

世の矛盾に迎合し、自らも積極的に矛盾した存在になろうとする凡夫は容易く三流の犯罪者に変容する。消極的な次元のドブに安々と流されるだけのゴミクズに過ぎない。


猫虐殺魔井上ひさしの共犯 産経新聞社・河出書房新社・高橋敏夫

井上ひさしはこの犯罪報告を1974年12月~1975年4月まで夕刊フジ(産経新聞系列)の連載コラム上で発表した。大手新聞社傘下の夕刊フジが何の精査もなく犯罪報告・犯罪称揚を掲載したのである。
その後この卑劣な犯行は批判に晒されることもなく、文藝春秋が書籍化し、現在でも犯罪報告記述はそのままに河出文庫(河出書房新社)が再発売している。この犯罪本の解説を担当した文芸詳論家の高橋敏夫は動物虐殺箇所には一切触れずに井上ひさしの下劣な感性の礼賛で終始していた。

犯罪報告を掲載し利益を得た産経新聞社、文藝春秋、河出書房新社並びに動物虐待魔井上ひさしの排泄物を礼賛する全ての評論家は猫虐殺の共犯者である。

「作家の人間性と作品は別」という言説について

当世の人間達が作品を作家の人間性と切り離して評価したとしても、作品が時の試練を耐えるのは難しい。太宰治が筋肉モリモリだったり、メルヴィルが海を一度も見たことのない引きこもりだったら後世の支持を得ることはなかった。

文豪の生涯は小説と同じくらい、またはそれ以上におもしろいとよく言われるが、才能ある作家が自らの人格と経験を通して得た作品という真実を歴史は評価するのだ。

妻を暴行し、猫を虐殺しておきながら反戦を唱え、児童向け文芸を披露する井上ひさしという汚れきった不誠実な虚仮は普遍的評価に値しないのである。

井上ひさしを作家としてではなく未来永劫、猫殺しとして記憶し断罪し続ける。それが我々善良な市民にできる殺害された猫達への弔いである。

各出版社は速やかに猫殺し井上ひさしの全書籍を回収絶版にして、文芸史上からもその痕跡を抹消し、人類はこの男の名を”不浄と苦痛の象徴”、”邪悪の権化”として歴史に刻みつけ、世代を越えて憎悪と罵倒を浴びせ続けなくてならない。

「井上ひさし」をネガティブな概念として日常に定着させる具体案

・全ての辞書から嘔吐、大便の単語を「井上ひさし」に差し替える。

例:『誰だよ、トイレで井上ひさしして流さなかった奴は』『車酔いして井上ひさししそう』

・性犯罪で収監された刑務所の囚人全てを「井上ひさし」と呼称する。

・全てのトイレ便器の内側に井上ひさしの肖像画のペイントを義務化。

・全ての猟奇犯罪者に共通する遺伝子異常 通称「井上ひさし」の研究結果を発表する。

Hisashi Inoue (1934-2010) of the Japanese writer did a Animal abuse.

We Japanese does not forgive a Animal abuse of Hisashi Inoue.